今日は参院選の投開票日なので、政治はよくわからないが投票所へ行ってきた。
投票所が自宅から近すぎるので、逆にこれで行かないのもなんだかね。
毎回選挙で思うのですが、今回の選挙でもこの疑問は健在。
「選挙で勝ち負けっていうのは違うんじゃないの?」という私の兼ねてからの違和感。
だって、勝つか負けるかは候補者側の視点であって、仮に選挙が国民全体のために行われているものであったのなら、勝った候補者に票を投じた国民は勿論、負けた候補者にも票を投じた国民がいるわけで。
つまり、勝ちとか負けとかではなくて
・投票者から多数を得た=当選
・投票者から多数を得られなかった=落選
というだけのこと。だから、勝ちとか負けとかではなくて、単に投票者の票が多かったか少なかったかということ以上でもなければそれ以下でもない。
だから選挙特番とか、政治用語は大っ嫌い。
数か月前に、国会の裏の衆議院会館へお邪魔したときにも思いましたが、やっぱり「永田町」という町の視点は国民の目線ではありません。
この辺から変えるという発想がないかぎり、やっぱり政治とか選挙って国民のために行われているものとは呼べないと思うんですよね。
この様に、「するか」「されるか」という能動と受動の関係性は、私が研究した範囲だと、古代ギリシャ以降の風潮です。私的に、学術主義、資本主義の要素が表現体を二択に追いやったのだと解釈しています(二元論)。
昨今では、この二択は当たり前になり過ぎていて、多くの人が、このいずれにも属さない感覚を忘れています。
最も簡単な気付きは「自然」に多く存在するものです。自然は能動と受動の関係性には属しませんので。
「する」こともなければ「される」こともない、もっとも現代の我々が失ってしまったスタンスを取っています。
ついでに、私たちの体も本来は誰の意図も受けず、また誰にも媚びをうりません。健康は本来そういう視点から健康法を考える必要がありそうです。