
西洋では、おまえの祖先の黒猫は火あぶりにされたり、高い塔から放り投げられたり、魔女の分身だと言われたりで虐殺されて来たんだよ?と言ったところで精々あくびしか反応がないのが猫。
私、この歳になって良く思うことがあって、みなさん何でもかんでも「嘘だ」「怪しい」とか、常識的にあり得ないことは、そうゆう表現で批判する習性があるかな?と。
私は子供の頃からあまり変わらないでいるので、「この世に嘘など一切ない!」と断言してしまう人。
例えばUFOだと、すぐにいるかいないかの議論になるのです。
私の場合、「いない」という選択肢はそもそも思考にはなくて、どのレベルまで「いる」と言えるのか?ということしか考えません。
超能力であれば、ありますよそりゃ。ないという人の方が、現代科学を奢り過ぎ!これも、どのレベルまで行けているのか?ということには興味はありますけども、「ない」なんて微塵も思わないです。
もっとワクワクして生きて良いと思うんですよね?大人たちは。
だから典型的な論文主義の学者連中とは根本が違うから、私はそういう大人とドンパチとやり合ってしまいます。いわゆる学者の様な大人には嫌われ者になるのが私。
「ない」っていう人とは、子供の時の様な遊びが出来ないので、なんだかこちらが寂しくなってしまうのです。ないことを「ある」に出来るのが、むしろ学者にこそできる能力のひとつ、すなわち夢を与える仕事じゃないですか?
だから学者ほど子供に戻って「ここには黄金のクワガタがいるはずだ」と、探してほしいのですよ。いなくてもいるはずだと語り合った時のあのままで。
友人のお母さんは、早朝から黄金のクワガタを探す私におにぎりを作ってくれました。
だから私は探し続けたいんです、クワガタじゃないかも知れないけども。
ダメですか?そういう生き方は?
ダメですか?そういう大人は?
ダメですか?私が将来人生を終える時に、黄金のクワガタ探しの続きを未来に託しては・・・。