体の方向から見た場合

裁判というのはいつも感情論が隣り合わせのぶつかり合い。

例え残忍で悲惨な事件事故であったと報じられたところで、法の尺度はそこにはない。

事実認定の積み重ね。

逆に、弁護士が被告側をどんなに擁護しようが、証拠に足るる事実がなければ何ら意見に過ぎず、判決には影響を持たない。

だからこそ、あらゆる方向性から事実を積み上げて、判決が出されるべきだと思う。

一方で、私が問題と思うのが、マスコミ側の一辺倒の方向性。

出てきた内容から話題を広げるのみ。

そこに目新しく革新的な問題提起は存在しないように思える。

これについては、コメンテーターそのものにも問題がある様にも思える。

例えば、先日判決が出された暴走自動車事故について。

相当な酷い事故であったし、被害者感情に寄り添う声が多くの国民から寄せられている様だ。

何よりも裁判の焦点でもあった、被告の「ブレーキを踏んでいた」という認識。

それによって、自動車側のトラブルも当然調べなくてはならないのだが、これについては自動車側の異常は見つからなかった。

よって、被告は嘘を付いているのだろうという方向に世論の風が出来上がる。

っが、私はこの件で、いわゆるボケや嘘というもの以外の部分の可能性について、世間はもっとフォーカスを当てるべきではないか?と思っている。

何故ならば、それが今後の自動車運転のあり方、高齢者ドライバーの免許更新基準に大きな影響を及ぼすかも知れないからだ。

「被告は嘘を言っている」「被害者感情を考えればこれ以上の可能性を探ったところで減刑主義者か?」という考え方も勿論わかる。

だた、だからと言って他の可能性を探らずに、「本件については被告個人が悪」だけで終わってしまっては、また同じ様な事故が起きてしまうと私は思うのだ。

つまり、他にも人間の習性として要因があるのではないか?と。

私が世間で語られていない部分で気になるのは、身体的な機能についてである。

テレビの映像を見ればわかるが、被告人は両方に杖の支えを持って歩いている。

これを、マスコミや世論は単に「足が不自由である」というだけの解釈で終わっている。

ここが今回私が問題と思っている部分。

「何故足が不自由であるのかを深掘りされ尽くしていない」と思うのだ。

私がもしかしたらと思う部分は、被告は脊柱管狭窄による知覚の鈍化、及び麻痺、筋力低下が「記憶ではブレーキを踏んでいた」という証言に至っている可能性を考えている。

当然、だからといって、本件の判決については、むしろ軽いと感じてしまう程で異論はないのだが、当院へお越しになられる方でも、ご高齢で背骨が変形を起こし、それが脊髄から足に行く神経に圧迫を加えて、例えば足の裏の感覚が弱い人が多くいる。

その様な症状の方は、私が足の裏を手で触っても「自分の足じゃない感覚」と答える。

また、年寄りに限らず、酷い椎間板ヘルニアや、腰椎滑り症などでも起こり得る。

側から見れば「本気で言っているの?」と思うかも知れないが、脊椎動物における足の神経の知覚や筋力は全て、脊髄から腰椎の狭い穴を介してしか走行していない。だから、この狭い腰椎部分の圧迫が強ければ強い程、足の知覚や筋力は失われるわけだ。

つまり、この被告人もペダルに足が触れている感触はなく、頭(脳の記憶)ではブレーキを踏むように指示を出していたつもりであった。よって、ブレーキを踏んでいるものだと解釈している。という可能性があるのだ。

「いや、自動車には問題はなかったのだし、停まるどころか加速しているのだからそれはブレーキを踏んでいない。」という意見は真っ当である。

しかし、重度の狭窄だと、筋力にも異常が生じるため、太腿を上げることすら大変な動作になるのだ(足首を反らす動作はもっと厳しい)。

自動車の習性上、アクセルから一段高い位置にあるブレーキペダルは、太腿の筋力を使って、足を持ち上げる動作が必要である(足先を持ち上げる動作も)。この場合、重度の神経狭窄を起こしている人は、自分が思ったよりも(頭で考えているよりも)足が上がらないことになるのだ。

だから、アクセルから足を上げて、ブレーキに足を運んだ・・と思ってアクセルを踏んでいた可能性があるのだ。

この勘違いが起こってしまう理由は他にもある。足の感覚が極度に鈍化しているにも関わらず、靴下を履き、そしてその上に靴を履いて、更に感覚は鈍化を起こす(革靴や底の厚い靴は更に鈍くなる)。そして更に神経圧迫によって筋力もかなり低下していたとしたら、足の空間的位置感覚に頼ることは極めて危険である。

本来はこれを目視で確認して補正するわけだが、それにも関わらず、自動車のペダルは覗き込まなくては目視ができない(足の位置を把握できない)構造であるし、政府は免許の更新時に痴呆を主とした「認知機能検査」に主眼を置いていて、何ら整形外科的な神経学的運動機能を評価できていない。

兼ねてから、AT車が問題視されてはいたが、この場合、足の感覚が失われ、ペダルを踏みかえる筋力も低下している中で、停まるか進むかを、2ペダルで操作するのはやはり危険なのだ。

この事故の全てを、被告個人の悪で終わらせたいというのであればそれも良い。

ただ、やはり被害者のご家族が仰られる様に、この事故から何かを学び、少しでも交通事故を減らせるとしたら、それはこの事故を個人で終わらせるのではなく、どの様に社会の仕組みを調整して行くのかが重要なところではないだろうか。

最後に、背骨の変形は人間では60歳以上であれば、まず100%の人にある。

ちょっとスクロールが面倒かも知れないが、一番最初の写真は、当院にある本物の腰椎を下から見た写真。

左側の青いマルの矢印部分には、骨が変形して過形成されているところが見られる。この部分を脊髄から分岐した大事な神経が通過しているのだ。

つまり、この骨の持主は、左足に何かしらの症状を有していたと思われる。

そして更に歳を重ねると、この骨が棘のように飛び出し、神経に刺さったり圧迫を加え、酷くなれば抹消(手足)の痺れや感覚異常、筋力低下が出てくる。

残念ながら、これらは我々の生活環境に重力がある以上は必ず生じるものであって、永年における環境適応によるものである。なので、お年寄りは常にあちらこちらに痛みを抱えている。

だとしたら、この変わらない法則を、どの様にリスク化しない様、世の中の仕組みに反映させられるのか。

それこそが、今回のこの悲惨な交通事故に於いて、我々に投げ掛けられている本質ではないのだろうか。

いつまでも被告個人に普段の生活の鬱憤をぶつけるのもいいけども、そこで終わったらいつまで経っても交通事故というのもが、自分とは対立的位置にあるものにしかならない。

対立から生まれるものは思考停止そのものである。

感情とは論理と対極にあるものなのだから。

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