どっち?

連日オリンピック競技がされているようですが、私はあまり見ていないかな。

先日とある方と話している中で、私が「オリンピックって仮想空間で擬似競技にするのではダメなの?」というと、「それじゃ面白くないじゃない」という答えが返ってきました。

そうなんですよ、面白くないんです。それでは。

選手一人一人の動きからすべての筋力データーや、筋肉の質(遅筋、速筋の面積を集約)も調べて、過去の対戦実績から苦手、得意なタイプのデーターを取り、ネット空間上で疑似選手がメダル奪取に奮闘する。なんなら遺伝子情報まで解析しますかね。

データーのままだと勝敗って変わりませんよね?例えば亀甲した実力の対戦相手であれば、お互い勝負が決まらない。ボクシングなんかは全〜部判定。判定も主観が大きく影響してはダメらしいので、これもIT判定にする。

面白くない。

そもそも逆の見方をすれば、競技という争い事は、互いの失敗と成功がその時々に入り交じり、相対的に致命的な失敗をした選手と、決定的な成功をした選手があるから「勝ち」があるわけです。

つまり、そういう観点から言っても、勝ちは失敗の上に成り立ち、「失敗こそがドラマを作る」というのが人間の魅力そのもの。

だけど、世の中の殆どが自分の責任、リスクを恐れて、効率化の名の下に、そういう面白さを「リスク」と呼び、失敗をしないIT化を進めているじゃないですか?

そういう方向を求めるのだから、だったらオリンピックもそうすれば?と思うんです。

出場者には皆さんに金メダルをあげて、100m走ではゴール前でストップをして手をつなぐんですよ。知人の子供の運動会では、徒競走でゴール付近に長い棒があって、早く走っても遅く走ってもみんな一緒に棒を持って横並びにゴールだったそうです。

これぞ今の日本が求めるスタンダードじゃないですか?子供に夢をなんて偉そうに言いながらオリンピックを見せるのだから、ここでもいつも通りに、大人の正義を子供に押し付ければいいんですよ。

一人だけ勝ったらダメよ、公平平等よと。

くだらない。

そして本音では社会全体が学歴や実績主義。

どこまで子供を騙すんですか?

そもそもどうして負けるのがダメで、失敗するのがダブーなのか、その固定概念そのものが問題。

一生懸命にやって結果的に失敗した。こんな素晴らしい経験なんてなかなかできませんよ。

私の小さい頃は、運動会なんかでも、徒競走で遥か後ろを走る人がいました。だけど、それをどんな捻くれた見方をしたら「可哀想」「みせしめ」だと思えるんですか?

見る側の人間性の問題。苦手でも一生懸命走る。素晴らしいことです。

私なんかは、どちらかというと対局的に一番先にゴールする側で、選手宣誓もやらされましたけども、そんなに足が遅い子に対して偏見ってありましたかね?

むしろ、私は落ち着きがなかったせいか、廊下ですれ違った先生に「お母さんに、おねえちゃんと比べられないか?」と、優秀だった姉と比較されたことすらありましたけど。

それでも「はて、この先生は何を言っているのか?」と、意味すら分からずにいました。

自宅へ戻り母親にこの事を話すと「それ酷くない?」って言われて、初めてなんか酷いことを言われたらしいくらいにしか理解ができませんでしたが。

ってよりか、仮に理解できたとしても、姉と比べたらそりゃそうだという納得くらいしかなかったと思います。

このヘンテコリン社会の風潮は、皆が同じ概念で物事を見るのが当たり前という、一局的な流行りや流れに乗っかってしまう民族性は大いにあると思います。この文化には、兼ねてから私は違和感を覚えています。

うちのオフィスにいらして、第一声で何を言うのかと思えば「○○選手メダルどうなりましたか?」と、まるで世の中の人は皆オリンピックを見ているかのような聞き方をする人もいますからね。

ダメですか?流行りに乗らないと。

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