疲れないか?

なんだか昨今のニュースや個々人の発信を見ていると、日本全体が疲れているなと感じます。

良いこと悪いこと、色々ありますよ。そもそも生きているのだから。そしてどのみち全員死ぬんです。

だけど、やっぱり死ぬまではみんな生きていることには変わりはないので、もう少しそれぞれが仲良く生きられないものかな?と思うんです。せめて生きているうちだけでも。

宗教や思想の違い、または個々の危機意識の違い、人生の歩みにおける経験と判断の違いは必ずあります。

だからこそ、勇気を持って反対的な意見にも自分が立ってみて、思慮し、何か一部でも良いので学んで受け入れる姿勢は必要だと思います。

これは、どんなに極悪非道な人を相手にしても同じことです。

仮に自分が犯罪を侵したことがなかったとしても、犯罪者と自分を比較して優劣をつけ、いい気になって正義ぶり、独自の制裁を加える権利などどこにもありません。

どう考えようと自由。どう感じようがそれも自由。ただ、それらは考えるまでであって、そこから先の行動に至っては公共の福祉に反します。

オリンピック批判もそうです。そろそろ大概にしませんかね?

コロナ禍で感じた不満や不安、それとは反対に期待の分だけ、言いたいことは沢山あると思います。

だけど、やるからには一生懸命にプレーをする世界中の選手がいます。

したくなきゃ、応援しなくてもいいんです。

だけど、批判は休戦させるという、人間としての強さと懐の深さがあって良いと思います。

私なんかの方が、実は世論よりもよっぽど過激で「オリンピックはいずれ無くなって然るべき」と思っている人間です。

その理由は、「国」や「性」によって競技者を区切ることは、突き詰めるとそもそも無理であるというのが私の兼ねてからの考え。

それなのに、平等、公平、を謳っているオリンピック。

なので、もはやこのハリボテは限界ではないかな?と思っています。

ま、最初から平等も公平も潔く「みなし」としたオリンピック憲章であれば、私も「それなら仕方がないか」と思えますけどもね。

人間は過去の体験をもとに、未来を計算するという、本能的な安全選択を行います。

過去の失敗は一生同じ目に合わないように、根に持って回避しようとするわけです。だからこそ、過去の過ちを一生償うという論調が生まれてくる。

っが、過去は重要ではあるものの、私は今とイコールではないと思うんです。

何故ならば、過去は絶対に変えられないが、今と未来は過去とは違う選択が出来るわけで、過去よりもよっぽど大事なのです。更に言えば、過去の事象は、今と未来の生き方によって捉え方を変えることさへもできる。

過去がどんな人であったかで、その人の一生を語るのは、つまりは肩書主義となんら同じこと。

昔がどんな人であっても、今度こそはと這い上がってきた人たちだって沢山いるんです。そういう人を、上から目線で貶したり、蹴落として良いという人とは私は仲良くはできないかな?と思います。

学歴社会、実績主義、前例主義だけでは社会は煮詰まるだけで変わりません。

ベンチャーが育たない理由も、昨今の日本の国民性を見ていればよくわかります。

確かに、失敗する確率はもしかしたら多いかも知れません。しかし、それでも過去ではなく、新しい未来を創造する人たちの輝きは、エネルギーそのものです。そういう光に価値を感じ、育てようという文化が早く根付く社会になって欲しいなと思います。

過去は過去、今は今、未来は未来、基本中の基本が出来ない民族性そのものが、「失われた30年」の本質だと私は考えます。

最後に、南の方で台風が出来上がったとか出来上がっていないとか。

タイミング的には、このまま完成して北上すると、明日、明後日には身体に負担が掛かるサイクルに入ります。と同時に地震の確立も高くなります。

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