間違えのドミノ

アレやソレというように、結構曖昧な割に自信満々に人に教えるのって見かけたことありませんか?

レッテル主義というのか、適当に頭の中で部類分けBOXに入れ、そのものの真実はともかく、部類分けBOXに貼られたシールで答える人。

私のオフィスは通りに面しているので、通る人の話し声が聞こえます。この間も、男女の2人が前を通った時に、女性が私の店舗を指さし「何のお店?」と言い、隣にいた男性が大きな声で自信満々に「これ?マッサージだよマッサージ!」と答える。

それを聞いて女性が「あ~マッサージ」とうなずく。

更に一連のやり取りを聞いて、「あ~そうなんだ」と思って感心している私がいます。

確かに、何となくソレ系?と思うのは否定しません。ですが、ここが一番の重要な点で、看板にも店名にも「マッサージ」という文言は一文字も入っておりません。

つまり、勝手に察して人に説明をし、そしてその人が勝手にどこにも文言が入っていないもので納得をした。

そもそもマッサージというものは、我が国の法律では「あんまマッサージ法」というものがあって、専門の国家試験をパスして資格を有する人しか名乗ってはならないのです。

ま、やれと言われれば大得意ですけども、私はそれを業としていない、つまりは、あんまマッサージ師の資格は保有しておりませんので、もしもマッサージを行っていたとしたら「違法店舗」になるわけです。

ということで、最低限の法の分類は仕分けして、頭のBOXに入れておいた方がよろしいかと。。。

これに限らずなんですが、昨今、ネットなんかを見ていると、人ってなんでもかんでも頭のBOXに仕分けしてシールを貼るんだなと感じてしまいます。

例えば、過去に不倫か何かで干された芸能人が、道徳的なコメントをすると「お前が言っても説得力なし」とか「どの面下げて言っているんだ」とか、自分の頭の中で一度部類分けしたら、一生そのBOXの中から他へ移そうとしない。

私は、過去にどれだけ悪いことをしたとしても、人として意見を述べる権利まで剥奪されているわけではないと思うんです。だから、今の「事」「事象」「問題」について、過去の事を引き合いに出す行為は、人への批判、場合によっては人格批判でしかないと思うのです。

日本の法律のどこに、過去の行為や素行、または犯罪によって、他人が過去に遡ってまで人格を批判しても良いなんて決まっているんですか?

批判の対象がいつも、事や事象から「人」や「個」に切り替わる現象そのものが、虐めの根本思考なんだと思うんですけどね。

人を勝手に頭の中で仕分けてBOXにしまい込みシールを張り付ける。

もしもその人のことを間違えてシールを貼って勝手に仕分け、そのシールが違っていたらどうするんですかね?それで人格批判なんてしたものなら、最も罪が重いのは、その仕分け作業を勝手にしてシールを張り付けた方ではありませんか?

「マッサージ」という文言を一文字も入れていないのに、マッサージと呼ばれ、それを他人にまで教えて納得した。この流れのように、人というものは勝手に決めつけ、そしてそれを疑わない習性があるんです。

まず、「個」を最大限守って人を愛してからでないと、一生、性差だ肌の色だ、善だ悪だにシールを張り付け決めつける。

根本的に人が人を愛していない、または自分が自分しか愛さない、そこに大きな原因があるように思えてなりません。

憎むべきは人ではなく、そのシールなのです。

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