考えるのではなく感じること

考えるのではなく感じること

脳の中心部分には、生命を司る重要な装置がぎっしりと詰まっています。

例えば、血圧の変動を安定させたり、呼吸数を調節したり、心拍を計算をしたり。

そしてその外周には、喜怒哀楽を判別する部分があり、いわゆる五感と言われている「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」は、この部分と密接に連絡を取っています(厳密には7感までは見つかっていますが)。

よって、安全か安全じゃないかの判断でも一番重要になるのは、上記の五感であって、嗅覚なんかは臭いを通じて、例えば「腐っているか腐っていないか」「仲間か仲間じゃないか」「焦げた煙の様な臭いがする」などにより、身に訪れる危険から守ことを可能にしているわけです。

動物の行動を見ればわかりやすいですよね?とりあえず初対面の人や生き物は、臭いを嗅いで相手を判断し、そして記憶をしてゆきます。

また、家庭用に使われているガスは、本来あまり臭わないものですが、それだとガス漏れを察知できないことから意図的に臭いを付けています。

この様に、生命の危険性や安心や安全を判断するためには、五感の判断を元に「好きか嫌いか」を決定しているものです。

しかし、人間社会では動物社会の様に、嫌いだから逃げるとは行きません。

社会的な関わりが必要であるために、学校へ通って友達と仲良くしたり、仕事仲間とコミニュケーションを取ることを強いられます。

つまり五感では、あまり好きではなくても、人間用に発達した脳では、大脳の働きによって協調性を持つことで、嫌いでも付き合えることが可能となりました。

しかし、全ての人がこれらの様に、協調性に富み、五感からの情報を大脳で咀嚼して考え、社会的に行動へ反映させられるとは限りません。

中には、五感重視で協調性なんてなんのそのという方々もいるわけです。

例えば、五感をふんだんに活用する様な仕事や趣味のある人。これらは、五感を研ぎ澄ます訓練をされている分、そうでない人よりもある意味素直に好きか嫌いかがはっきりしてしまう場合があります。

五感を仕事の一部として利用している芸術家に、気難しい人が多いのはそのためで、つまりは「見たもの」「聴いたもの」「触ったもの」「嗅いだもの」「味わったもの」に関しては、一般的な人達よりも「うるさい」わけです。

例えば、絵描きの方が、PCを購入したとします。初期設定で、デスクトップに設定されている絵があったとしたら、それが自分の好みの絵である確率は少なく、その結果、いち早くデスクトップの絵を入れ替えてしまいます。

これは興味深いもので、この方が絵描きではなくても、他の芸術性の高い職業の方は、さっさと入れ替える習性があるのです。

このことからも、芸術系の人は、単に一つの感覚に煩いばかりではなく、様々な五感に敏感であるがゆえに「好き嫌いが激しい」と思われがちになります。

極論的には好き嫌いが激しいのかも知れません。しかし厳密には、不快に感じることにも、快に感じることへも感度が高いために、気になることが一般人よりも気になり過ぎてしまう習性がるわけです。

そういう部分から、芸術を志すことに長けている人というのは、思春期以降であれば、誰でも判定することができます。

例えば、クラスに30人の生徒がいたとして、その中で不快な音を反復的に鳴らしてみます。なんでも良いのですが、例えばシーンとしている空間でシャープペンシルのノックする音を「カチカチ」と鳴らし続けます。

まず、不快に感じる人は、続ければ続けるだけ交感神経の働きが高まりますので、体動を伴う反応がみられます。音の方向を見るのは勿論、貧乏ゆすりをしてみたり、肩や首を動かしてみたりと、動きに落ち着きがなくなってきます。勿論見えない部分では、脈拍や呼吸数の増加として観察することもできます。

これは、音だけの話ではなくて、強い臭いでも識別することが可能です。

よく、好き嫌いの差ではないか?と言われることがありますが、確かにそういった理由で不快に感じることもあります。しかし、その程度の人は、あまり根に持ちませんし、我慢できてしまう範囲なので、音はしていても自分が楽しいことをやってさえいれば、相対的に嫌いなものが気になりません。

おおよそ、不登校の子供の多くと話してみると「教室の臭いが嫌だ」とか「給食の時の隣の人の食べる音が嫌い」とか「教室で騒ぐ音が大きすぎて苦手」とか、一見「それを理由に学校へ行かないと言いたいだけなのでは?」と思われがちですが、この時点で「芸術肌である」ということがよくわかります。

この様に、人にとっては全く気にならなくても、またある人にとっては気になる。この部分の程度は、脳の五感の優先度が高いか低いかによって決定されてゆきます。

であるからして、私はそういう人に、次の実験をしてみたくなることがあります。

色を見て、それを音や臭いや手触りや味に変換できるか、そういう人を見つけるとは、もはや私にとって重要な研究材料です。

驚くなかれ、多くは最低でも1~2個の変換ができることがわかりました。

例えば、私がボールペンの裏側を一定の高さから垂直に机に落として音を鳴らします。っで、「もう一度同じことをやるから、この音を臭いか手触りか味か色で感じてみて?」と言ってやってみると、「臭いですかね?」と教えてくれる。

そして「もう一度同じことをやるから同じ臭いがするか教えて?」と伝えて、実は先程と落とす机の位置(最初が真ん中なら端に落とす)を変えてやってみます。

本人には伝えていないのに、「臭いが違うから音が違う」と答えてくれる。

実に素晴らしい。

音楽家でもなんでもないのに、臭いを手掛かりに、音が識別できてしまうという脳の素晴らしさ。いや、むしろその辺の音楽家よりも耳が良い。

いろいろと工夫をすれば、色でもできるし作品そのものでもできる。

そういう実験を繰り返していると、やはり人間は五感ではなくて「体の全てが感覚器官である」ということがわかってきます。

感覚器は一つからだけでは鍛えられない。

専門分野で勉強している人は陥りがちなのですが、その分野を掘り下げれば下げる程、どうしても視野が狭くなる部分があります。よって、専門分野が絵であれば、尚更目を使わないで感覚を掘り下げる訓練を行わないと、本質的には「絵の技法だけ再現しました」的な絵しか描けない人になってしまいます。

そこから生まれる感動は希薄。

私は芸術系の才能はありませんが、触覚は使いますので、触覚を鍛えるために音を聴き、絵を見て、味を感じ、臭いを嗅ぎます。

ちなみに私が気になって仕方がない音というものを告白すると「咀嚼音」がダメなんです。

口を閉じないで食べる様な「クチャクチャ」の様なもの。

あれをやられると、どうにもその空間にはいられない。

これがストレスそのものであって、最悪寿命さえへも縮めてしまうことにもなりかねません。

協調性のない人をフォローする意味ではありませんが、気になることを気になると言っているのは、自己防衛の範囲でもあるわけです。