先日、久しぶりに渋谷の駅と原宿の駅の間にある宮下公園があったところを歩いた。
いつもは山手線の車内から望む景色だけど、あの薄暗くホームレスの避難場所でもあった宮下公園がここまで変わっているとは・・・。
完成すると、渋谷から原宿までのアクセスは徒歩でも雨に当たらず楽しめる空間になるのかも知れません。
とくに渋谷の街並みは、近年再開発で大きく変わろうとしています。というか、既に2~3年前とは別の空間と化しています。
しかし、面白いもので、匂いや空間から滲み出る雰囲気は変わらないんです。
そう言う土地的な感覚って皆さんにもありませんか?
私の脳には、いわゆる「サバン症候群」みたいな部分もあって、例えば絵画や写真を見た時に「匂い、空気感、雰囲気、音」で記憶する習性があります。これが昔のモノクロ写真の街並みであっても、現代のどこの場所かを見つける事ができたりします。勿論、実際に行ったことがない場所はわかりませんが・・・。
1秒でも映像や写真を見ただけで「あっ!」と声が出てしまう。風景が写されなくても「今のあそこの歩道橋の階段だと思う・・。」と言って、Googleのストリートビューなどでそれを証明して見せると「怖っ!それ人に言わない方がいいよ」となります。
自分でも何故そこが分かるのかは正しくは説明できません。ただ、私は普通の人間ですので、特殊な能力ではないと思います。つまり脳の持った何らかの習性。
それらを出来ない人へ逆に「じゃあ、どうやって写真で場所を特定するの?」と聞くと「看板とかビルとか道路とか・・・」と言う。
なんて言うか、目からの記憶じゃ無理だと思うんですよね。感覚的に。だから人間は基本、スマホで動画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだりするのは苦手なはずなんです。今でも辞書とか新聞とか雑誌とか、紙媒体の方が脳の記憶に残るものだと思っていますし。
目だけの情報では何もリンクしないんじゃないかな?と。
同じ様に、人間は過去の記憶などを全身の感覚器で体感的に記憶をしている事が多々あります。
良いことも悪いことも、自分にインパクトがあったものは皆そういうもの。
問題は、それが嫌な記憶と感覚器が繋がってしまっている場合。
これがとても厄介で、単なる過去の出来事ではなく、私が写真を見て匂いを感じるのと同じく、それに関連するものが1秒でも目に入れば、体は全てストレス(悪い記憶なので)として反応するものです。
うつ病の人は、これを永遠と思い出の引き出しから引っ張り出し続ける習性があって、しかもこの思い出が「嫌だったこと」に特化して掘り下げてしまいます。
そういう記憶というものは、永遠と頭の中で答えのないループ処理しか行わないもので、そこを突破することには、相当なエネルギーが必要になります。
とくにうつ病の人は、突破するエネルギーなど持ち合わせていません。しかし、少ないエネルギーでこの無限ループを突破する方法があります。
それは、記憶の元に戻ること。
セーターにトゲが引っかかった時に、それを引っ張って外すには、糸が切れるかトゲが折れるかまで、力いっぱいに引っ張らなくてはならない。しかし、一旦引っかかった場所まで戻り、そこからもう少しだけ戻る。すると、何ら力を必要とせずにトゲがセーターから外れるわけです。
戻るのにはそれ相応の勇気が必要です。何故ならば、元の場所から可能な限り離れたい(トゲを引っ張る方向に)という意志が、生命保護の機能と協調的に働くからです。しかし、肝心なところは、引っ張れば引っ張るだけ糸が伸びたり切れたりして、元の様に修復するのが難しくなってきます。勿論、近くまでは修復することは可能ですが、やはり一連の繊維との整列性は失われます。
だからこそ、人生の歴史を見返してみることは重要な作業です。
渋谷の街並みの話から、人間の精神心理にまで話は派生しましたが、街並みも同じく「何もなかった時の元の自然環境に調和させる」というのは必要なことだと思います。
例えば渋谷川は、いまだに渋谷駅の地下を流れて恵比寿、天現寺と東京湾に向かって流れています。原宿ではキャッツストリートは渋谷川の上を歩く格好。明治神宮の「清正の井戸」や、その裏手にある、代々木八幡の近くを流れる「春の小川」の歌の題材になった川は、渋谷川へ流れ込んでいます。また、オリンピック会場でもある国立競技場近くからも流れていました。
街並みを川に戻せとは言いません。ただ、川は風の通り道ですから、風力学を芸術的に応用したオブジェだったり、またはその習性を生かして、省エネタイプの温暖化対策のビルを作ったり。
昔の人に伺うと「渋谷川はウナギが取れた」と仰ります。よって、天元寺方面には鰻屋さんがまだ残っているところがあるのだとか。
ウナギではなくても、伝統的な飲食店などを置くとか(恵比寿近辺はその様に栄えていますが)。
土地の神様というものがあるのか無いのかはわかりませんが、一過性の開発ではなくて、それぞれ地にあった反映のしかたってあると思いますね。
っで、私の人生はどうかというと、自分自身のいわゆるコンプレックスは「勉強が出来ないこと」です。
この年になって、今一番したいことって何?と聞かれたら「大学に行きたい」という何とも馬鹿馬鹿しい事。
私は人生の中で「職業を意識した学校」しか通った経験がなくて、「自分が知りたい勉強」というのをしてこなかった。本当に恥ずかしい話です。
しかし、ここのところ「お金にならないけども知りたいと思う事への研究」というのが、何とも贅沢な人生の過ごしかただと思う様になりました。私が人生で昔に置いてきたものは「学力を身につける事」です。
わからない事が増えてくると、可能な限りの勉強をしてきた中で「わからない」という答えならまだ納得が行きます。しかし、今までの人生が何せいい加減だった私ですから、勉強が出来ていない上に「わからない」というのは、知る努力をしてこなかった人が、急にひとつまみの勉強をして「わからない」と言っている様なもの。
もはや「生意気」ですよね。何も知らない浅い知識でわからないなんて。
今日ちょうど弁護士さんを職業とされている方に、「先生の職業のピークと言われる年齢っていくつですか?」と聞かれて「ん〜もはや過ぎてたりして」と笑っていたら、そんな話になったんです。過去から今、今から将来の話。
私なんか「泥沼不倫専門の弁護士事務所なんて面白そう」とかテキトーな将来の提案をしておきながら「ところで先生は何かやりたいことは?」と聞かれて、恥ずかしい話だけども「大学で勉強をやり直したい!自分が納得いくまで研究したい!」と話すと、意外や意外「お〜、いいですね〜!それ!」と言われました。何だかちょっと救われた感じがしましたね。なかなか言いにくい感じはあったのに、「そういう人生いいと思う」と言われて・・・・。
最後には「毎日オナニーなんて出来ないでしょ?お互い若く無いんだから!」と言って、妙に納得しながら何故だか話が完結しました。
何の話だったのやら。。。。